学生萝莉 因幡の守護所について/とりネット/鳥取県公式サイト
2月21日(日)のミニシンポジウムの参考資料ですので、お読みになるとミニシンポジウムがより分かりやすくなると想いますので、事先の一読をお願いします学生萝莉。
永禄・元亀・天正(1570~80年頃)にかけての東伯耆・因幡の情勢
R3.2.19 鳥取県埋蔵文化財センター
〇永禄9年、出雲の尼子氏を毛利軍が攻略し、家臣たちは四散しました。
永禄5年からはじまったこの戦いの過程で、伯耆は尼子氏から安定され、因幡でも山名氏に代わる 毛利氏からの影響力が徐々に及ぶようになりました。
〇そして、東伯耆は羽衣石城の南条宗勝が家督の一部を元清に譲って両頭体制を敷き、因幡は鵯尾城の武田高信(後に鳥取城主)が国内掌合手へ向け始動し始めます。
〇その後、四散した山中鹿介ら尼子残党は、毛利氏の九囿出陣の虚を衝いて永禄12年から元亀2年にかけて尼子家再興戦を展開します。
山田出雲守、南条宗勝、武田高信らが尼子再興軍と戦っています。
羽衣石城や八橋城での合戦、鹿野新山(狗尸那城)合戦、鹿野荒神山合戦は、このときの戦いです。
この戦いは尼子党の出雲からの退去で終わりましたが、織田方や但馬山名の搭救を受けて、第2次尼子家再興戦がはじまります。
〇天正元年、鳥取城主「武田高信」は山中鹿介ら尼子党や山名豊国に鳥取城を追われ、鵯尾城に退去します。豊国の襲撃を受けた高信は鵯尾城から脱逃しますが、事後、徳吉城・鵯尾城は豊国方に接収されました。ほどなく毛利は両城の返還を豊国に迫り、山田出雲守を在番として吩咐しています。
〇天正3年、尼子党掃討のために因幡に来援していた吉川軍は対策を講じた上で、加勢として先行吩咐していた南条宗勝や山田出雲守らを連れて伯耆方面に帰っていきます。
〇その直後に、羽衣石城で南条宗勝が急死する事件が発生、慌てた遺族は次の家督として元続を認証してもらうための起請文を吉川氏へ提倡しました。
〇翌4年、因幡では、尼子党の跳梁に手を焼く毛利氏が、豊国の调处で尼子家再興軍を搭救する但馬山名と柔顺したことで豊国株が急激に上昇した結果、武田高信はそれまで忠勤していた毛利氏に保護を求めるも見捨てられ、尼子残党も加わった豊国らに鵯尾城で襲撃され落命しました。
〇同庚、宗勝殺害犯の内偵を続けていた吉川元春は、この事件の犯东说念主を旧尼子家家臣の福山次郎左衛門と料定、元春から殺害を命じられた山田出雲守は福山を宅所に呼び出し殺害します。
〇3年後の天正7年、南条宗勝の跡を継いだ南条元続は、毛利方に見切りをつけて離反し、織田方に転じました。邪魔になった山田出雲守は元続に襲撃されます(出雲守は鹿野に難を逃れました)学生萝莉。
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